ihsoy_345’s blog

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3/11 奥寺康彦 生誕祭

奥寺康彦さん。お誕生日おめでとうございます!

3/11は、奥寺康彦さんのお誕生日です。おめでとうございます🎉

奥寺さんは、1952年3月12日の71歳です。秋田県鹿角市出身の、元サッカー⚽選手です。

 

横浜私立舞岡中学校で、サッカーを初め、相模工業大学附属高等学校に進学。

高校卒業後、中学時代のコーチであった、東邦チタニウムサッカー部監督・三村格一さんの薦めで、日本サッカーリークの古河電気工業サッカー部にテスト合格をはたします。

 

1976年、2ヶ月間ブラジルのパルメイラスに留学すると、日本代表に選ばれるまでに急成長!

その年、代表戦でムルデカ大会に出場し、7ゴールを上げ、得点王に!天皇杯では、ゴールを決めて優勝。JSL(日本サッカーリーグ)でも8ゴールを上げ、得点王になる2冠に貢献し、ベストイレブンに選ばれました。

 

1970年代には、今のように海外で活躍される選手は、まったくいません。そんな中、世界最高峰のリーグである、ドイツのブンデスリーガで、初めて活躍された、日本人選手になります。

スピードのある左ウイングを探していたケルンは、奥寺さんに興味を持ち、練習と称してテストを行い、獲得することに。この時、奥寺さんは「もし最初から入団テストだと聞いていたら本来のプレーが出来ていなかった」と、のちに語っています。

 

ただ、本人はドイツ語が出来ないこともあり、オファーを断っています。しかし、多くの方から薦められ、ドイツ行きを決めました。

なぜそこまで、海外移籍を拒んだのか!なぜなら、今の代表とは異なり、海外でプレーしていても、代表に召集されないためです。

試合ごとに欧州クラブから、日本に召集するということが困難だったため、日本代表を諦めなければ、ならなかったのです。今とは全然違いますね。

ドイツでのプレーは、3つのクラブ併せて9年間にもなります。9年間での成績は、通算234試合に出場。26得点をあげています。

この記録は、岡崎慎二選手が28点を上げるまで、ブンデスリーグにおける日本人最多得点でした。

ちなみに、出場試合数も、2017年に長谷部誠選手に塗り替えられるまで、最多記録でした。

 

1986年に「まだ選手として衰えないうちに二本でプレーしたい」と表明し、古巣の古河電工に復帰されました。

ドイツ時代は日本代表としてプレーすることはありませんでしたが、古河電工に復帰すると、日本代表にも選出。

両サイドでのプレーが可能で、ゾーンディフェンスによって、相手のサイドプレーヤーを押さえ込んでいました。

プレースタイルは、正確なクロスボール、と運動量豊富なスタミナ。安定したパスやシュートが評価されました。

中でも左足での素晴らしいシュートや、そのスピードを武器に、FWからDFまでユーティリティとして、どこでもこなせるというのが、凄いところです。

ドイツのファンからは「東洋のコンピュータ」と呼ばる人気選手でした。

 

1978-1979シーズンでは、今のUEFAチャンピオンズリーグである、UEFAチャンピオンカップにおいて、アジア人として大会史上初のゴールを決めています。

この記録は、タジキスタンのラシッド・ラヒーモフ選手がゴールを決めるまで16年間現れないことに。

「日本人初のプロサッカー選手」とされていますが、実際は1975年に香港の「東方足球隊」において、佐田繁理さんのほうが、日本人初のプロサッカー選手と言われ出しました。しかし、佐田さんは正式なプロ契約ではなかった。と、言うのが大半です。ちなみに、この佐田繁理さん、実のお兄さんは歌手のさだまさしさんです。