ihsoy_345’s blog

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3/13 は、ランディ・バースの誕生日!

ハッピーバースデー!ランディ・バース

本日 3/13 日は、ランディ・バースさんの誕生日です。おめでとうございます!

1954年3月13日、オクラホマ州ロートンに生まれ、1983年~1988年まで、日本のプロ野球チーム・阪神タイガースにて活躍されました。背番号「44」は、誰もが忘れません。

アメリカのMLB時代は、その長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われるほど、期待されていました。

が、子供の頃、足を複雑骨折したために、全力疾走が出来ないことで守備が出来ず、さらに速い球に弱いことから、レギュラーを獲得することができませんでした。

ちなみに、MLB時代所属していたチームには、後に読売ジャイアンツで活躍したウォーレン・クロマティともチームメイトだったことがあります。

1982年のオフにて行われたウィンターミーティングにて、阪神と阪急との間で、バースの獲得競争が行われました。

阪神の渉外担当・藤江清志さんと阪急常務・矢形勝洋さんとで、契約金額を競り合いました。ただ、阪急側はブーマー・ウェルズに目をつけ、結果バースは阪神に入団することになりました。

1983年に来日すると、一塁手には藤田平がいたため、右翼手を守ることに。が、守備が出来ないこと、藤田の高齢化もあって、一塁手として使われるようになります。

シーズン初めは不振が続きき、開幕から15打席連続無安打という球団ワースト記録を作ってしまいます。

ただ、序盤出遅れたものの後半もちかえし、1年目は、打率.288、35本塁打、82打点と長打力に特化していました。

この年にバースが解雇されそうになっていたことを、みなさんはご存知でしょうか?

1982年、チームが大躍進したこともあり、期待された阪神でしたが、1983年、開幕しても調子が上がらず、その原因が「バースのせい」とされ、同期入団のスティーブ・ストローター選手のほうが、ファンは期待しました。そんな中、先発投手陣が手薄なチームは、外国人投手の獲得に乗り出します。

当時の規定で、外国人選手の人数は1チーム3名までとされていたため、既にバース、ストローター、アレンと3人の選手と契約していたため、 この中の1人を解雇する必要がありました。

そのとき、ミートは上手いが怪我をしていたストローターか、調子の上がらないバースか。選択を迫られた阪神は、パワーだけでなく、態度・努力・人格を評価して、バースを残留させることに。その期待に応えたバースは、結果を残していきました。

1984年には打率.326と結果を残すものの、夏に負傷離脱したことをチームは重くとらえ、オフに外野手の岡田を三塁に、三塁手の掛布を一塁にコンバートする案が持ち上がり、掛布と重複し、守備に不安があるバースの解雇が噂されるように。

ただ、来期から指揮をとることか決まっていた吉田義男監督が、球団に強く残留を願い、掛布の一塁にコンバートする案も白紙になったことから、残留することに。

1985年にはバース・掛布・岡田と強力なクリーンナップを形成。4月17日には、ジャイアンツを相手に槙原寛己から、バックスクリーン3連発。今でも語り継がれています。

この年、打率.350、54本塁打、134打点と活躍し三冠王を獲得。阪神を初の日本一に!

セントラル・リーグ初の外国人本塁打王に輝きました。

この年、1964年に記録したシーズン55塁打の更新がきたいされたが、54本目を打った段階で残り2試合はジャイアンツ戦。その監督は王貞治。1試合目の先発は、江川卓。3打席とも勝負し、本塁打は打てず。他の投手は敬遠攻め。最後の試合でも本塁打は打てず、記録更新はなりませんでした。

王は「敬遠の指示はしなかった」とのことでしたが、当時ジャイアンツに在籍していた外国人投手キース・カムストックは、後に「バースにストライクを投げたら1球につき1000ドルの罰金」との指示があったことを証した。指示を出したのは当時の一軍投手コーチ堀内恒夫でした。

西武ライオンズとの日本シリーズでは、3試合連続本塁打の大活躍!阪神を2リーグ制になってから初となる日本一に導き、リーグと日本シリーズ、両方でMVPを獲得します。
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